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14世紀ごろ、按司(アジ)と呼ばれていた沖縄各地の権力者がお互いにその勢力を延ばしはじめてていました。やがて南山、中山、北山と呼ばれる勢力に集約され、「三山時代」と呼ばれる時期に入りました。
1372年、佐敷(現佐敷町)の按司であった苗代大親と呼ばれていた思紹(シショウ)の子として巴志(ハシ)が誕生しました。青年になった巴志は常に自分の領内を見回り、皆に気軽に声をかけ、常に農民たちのことを気遣い領地内の人たちからは絶大な信頼を得ていました。「自分の大切な刀と引き換えに大量の鉄と交換し、領内の農民に分け与えた」というエピソードも人々の信頼を集めたそうです。
琉球統一を目指した巴志は1406年、父・思紹とともに中山王の武寧(ブネイ)を滅ぼし、浦添グスクを攻め落としました。
そして自分は王位には就かず、父を中山王にしたという話がたちまち親孝行の噂として島中に広がり、有力な按司たちが尚巴志のもとに集まりました。その後、巴志は焦らず、佐敷の馬天や与那原を拠点に海外との交易をおこなって財力を蓄え、領地の家来・農民たちに十分な休息を与えました。そして勝機を狙っていました。
10年の間に力を蓄えた巴志は1416年に北山王の攀安知(ハンアンチ)と難攻不落と呼ばれていた今帰仁グスクを攻め落としました。
1429年には他魯海(タルミ)の南山である島尻大里グスクを滅ぼしました。ついに三山を打ち破り琉球を統一しました。 |
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当時の中国皇帝から「尚」の姓を賜り、「第一尚氏王統」を築きました。1421年、父・思紹が亡くなると2代目の琉球王「尚巴志」として1469年まで続く第一尚氏王統の基礎を築きました。 |
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南山の勢力争いの時代に敗れた「屋蔵大主(ヤグラウフヌシ)」が伊平屋島に逃れ、そこで権力を築き伊是名島まで統一しました。「屋蔵大主」の子「佐銘川大主」が伊是名城主となり、縁あって佐敷の地で暮らすようになりました。佐敷の按司「佐銘川大主」の子として誕生したのが後の尚巴志の父である「思紹」でした。ルーツをたどると「琉球統一」と「やんばる」には不思議な縁がありました。
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