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働き者で村の乙女たちからも人気のあった松金に対し「乙女たちをたぶらかして自分たちの田から水を盗んでいるに違いない」と怪しんだ村人たちが「島を追い出そう」と企てました。それを知った松金は妻と幼い弟を連れてを逃げました。その後、国頭や琉球各地を放浪し、越来(沖縄市)にたどり着きました。そこで尚巴志王の5番目の子である尚泰久に才能が認められ王府の役人に就きました。 |
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頭角をあらわしていった松金は「金丸」と名を改め、歴代国王の相談役として上級の役人にまで出世していきました。暴君であった7代目国王の尚徳王とうまく意見が合わず、国の役人を引退しました。1469年、尚徳王が亡くなった後、王府の人や家来が今までの尚家の血筋以外の新しい王をたてる動きに出ました。そこで歴代の王や国民から信頼が厚かった金丸が推薦されました。1470年ついに百姓出身の金丸が王位に就き「尚円」と号し「第二尚氏王統」がスタートしました。以降、尚円王が1470年〜1879年の約400年にわたる安定した政治の基礎を築きあげました。
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尚円王以降、伊是名島は別格の扱いを受け、大美御殿の直領として伊是名島を総地頭に下地役検者を配して司政にあたらしめました。この頃から伊是名と伊平屋は一つの行政区として取り扱われて伊平屋と総称され、伊是名を前地(メーヂ)、伊平屋を後地(クシジ)と呼び番所は伊是名に置かれました。画像は3代目尚真王時代に造られた伊是名島にある尚円の両親や親族が眠るお墓です。 |
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