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  ■ブロードバンド回線やんばる歴史探訪シリーズ
〜琉球王 尚円を訪ねて〜:6分10秒

■ISDN・36Kモデム回線やんばる歴史探訪シリーズ
〜琉球王 尚円を訪ねて〜:6分10秒
 

 
 

 
 
  伊是名村は沖縄本島の北方に位置し総面積は15.42kuで伊是名島のほか、具志川島、屋那覇島、降神島の4島から成り立っています。伊是名島はほぼ中央を高台山地が南北に山脈状をなし、耕地が広がっています。主な農作物はサトウキビのほか、メロンやスイカ、マンゴー、菊などで稲作も行われています。水産業ではモズクの養殖が盛んに行われ、伊是名島の特産品として定着し、県内外へ出荷されています。
もずく船


 

 
 
 1415年に伊是名島の諸見という集落に農民の子として後の尚円王「松金(まちがに)」が誕生しました。松金はとても仕事熱心で昼夜問わず田畑で両親の手伝いをして一生懸命に働きました。やがて結婚して親や弟と仲良く暮らしてましたが20歳の時に両親を相次いで亡くしてしまい、妻と幼い弟と細々と生計を立てていました。当時の伊是名島の田畑は荒地が多く、よくかんばつで被害にあいました。しかし働き者の松金の田だけは豊作が続いていました。琉球の国中が大かんばつにみまわれたときにも松金の田だけは豊作でした。村人たちが松金に問い詰めても松金は答えてくれませんでした。松金の田は高い位置にあったにも関わらず水が逆流しているように潤っていたことから「逆田」と呼ばれました。
尚円王像
 
  歴史の連続再生:31分22秒  
 
 
 
 
 
 
 











逆田  
  働き者で村の乙女たちからも人気のあった松金に対し「乙女たちをたぶらかして自分たちの田から水を盗んでいるに違いない」と怪しんだ村人たちが「島を追い出そう」と企てました。それを知った松金は妻と幼い弟を連れてを逃げました。その後、国頭や琉球各地を放浪し、越来(沖縄市)にたどり着きました。そこで尚巴志王の5番目の子である尚泰久に才能が認められ王府の役人に就きました。
   

 頭角をあらわしていった松金は「金丸」と名を改め、歴代国王の相談役として上級の役人にまで出世していきました。暴君であった7代目国王の尚徳王とうまく意見が合わず、国の役人を引退しました。1469年、尚徳王が亡くなった後、王府の人や家来が今までの尚家の血筋以外の新しい王をたてる動きに出ました。そこで歴代の王や国民から信頼が厚かった金丸が推薦されました。1470年ついに百姓出身の金丸が王位に就き「尚円」と号し「第二尚氏王統」がスタートしました。以降、尚円王が1470年〜1879年の約400年にわたる安定した政治の基礎を築きあげました。




墓  
 尚円王以降、伊是名島は別格の扱いを受け、大美御殿の直領として伊是名島を総地頭に下地役検者を配して司政にあたらしめました。この頃から伊是名と伊平屋は一つの行政区として取り扱われて伊平屋と総称され、伊是名を前地(メーヂ)、伊平屋を後地(クシジ)と呼び番所は伊是名に置かれました。画像は3代目尚真王時代に造られた伊是名島にある尚円の両親や親族が眠るお墓です。
 



 
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伊是名村役場 企画課 神山 利和さん
伊是名村 ふれあい民族館
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